ループ ザ ループ。

好きなものについていろいろと本気出して考えてみるブログ。

ジャニオタにおける「担当」


さてジャニオタとしてはやはり触れずにはいられない、担当問題。

担当の定義は本当に人それぞれで、少し検索してみるだけでもみんな思い思いの感情で担当を名乗っているのがわかります。

ここで私も一度しっかり考えてみようと思う。


そもそも担当とは何か?

言葉自体が与える印象としては、単純に"ファン"だと思います。

いまやネットで担当という言葉を目にする機会が増えすぎてしまったからなのか、言葉の持つ意味は薄れてきている気がする。

あえて一時期はほぼ一般層と同じような目線になっていた私から言わせてもらうなら、たぶんジャニオタが考えるほど世間は「担当」という言葉を重く受け止めていないのではないでしょうか。
「相当なファン」、くらいで。

『ジャニーズアイドルを好きな人は、自分が好きなアイドルの"担当"を名乗るらしい」と知り、じゃあ私は○○くん担当だと認識・自覚する』

この作業はジャニオタにとって重要なこと。
前回記事でも述べた通り*1誰か一人を選ぶ機会は必ずあると思うし、コミュニケーションが途端に円滑になるような気がする。

コミュニケーションありきの言葉としての「担当」

手元のスマホで簡単に情報を得られ、さらに自分でもSNSで気軽に発信できる時代になったからこそ別の意味を持ち始めた言葉もあって、そのひとつに担当って当てはまるのではないかと。

現在の使われ方は、コミュニケーションありきのもののようにも感じる。

ファン同士で交流したりSNSを利用する際に誰かに自分のことを表すのに使う肩書きであって、自己紹介のようなもの。
自分一人でいるだけなら肩書きなど必要ないわけですから。


自分自身のアイデンティティとしての「担当」

ここまで担当という言葉に対してある意味記号的というか、分類のひとつのように綴ってきました。

ここからは本質的な部分について。

担当という言葉を、対"相手"として使うのか、はたまた対"自分"として使うのか。

例えばしっかりとした担降りブログを書く方々は自分の中での葛藤を綴っているため間違いなく後者と言えます。

人に名乗るための名目としての「担当」ではなく、自分の中での認識としての「担当」。
アイデンティティと言ってもいいのではなかろうか。それくらい重い言葉だと思います。

他人からは見えませんが当人にはとてつもない決意であって、すごく熱いもの。

担当という言葉がいつ生まれたのかはわかりませんがきっとすごいロマンが詰まっているんだと私は考えています。

ネットなどのバーチャルな世界が普及していなかった時代、自らの労力を惜しみ無く使い現場に足しげく通い、大好きなジャニーズアイドルに尽くし(売り上げ貢献的なこととか)、自分達が彼を支えているんだ!!という責任感を持って活動していた先人たちが、自信と共に名乗っていたのが語源なのでは。
…という、妄想。

だから、ジャニオタに戻ってきたての私自身は今とても担当を名乗りづらい。

昔からわりと自分で使うことに対してはなんとなく居心地が悪くて、申し訳なさを感じていました。

軽率に名乗っていいものなのかとやっぱり今でも少しの申し訳なさと居心地の悪さを感じるけれど名乗ることで自分自身の考えを確立できるのであればと、今日からしっかり名乗らせていただこうと思う。

私は、V6担当だ!!!!!

この期に及んでまだグループ全体かよ!と石を投げたくなった方すいません。投げないで。

私は彼らのグループとして存在している姿が好きなのだから仕方ない!!!
だから戻ってきたと言っても過言ではない。

ジャニーズのグループが20年活動できているのって、昔はきっと当たり前じゃなかった。
今でこそどのグループも人数が減ろうが解散せずに活動してくれているけど、すごい時代だなと思う。

5周年の時点で「解散したらどうしよう、5周年でキリもいいし…」という根拠のない謎の不安を抱いていたような心配性な人間としては20周年を迎えることなんて想像もできなかった。

たぶん、6人が6人として活動してなければ私は戻ってこなかった気がする。

担当をグループでくくると途端に真剣さを疑われるというか、一人一人に対しての感情が軽く見えるというか、いや確かに担当を一人に絞っている人からすれば軽いのかもしれないけども……。
そう考え出すとやっぱり申し訳なさを感じるんですけども、これも対"相手"で考えてしまうからなのかなあ。

でも私の脳内構造からしてたぶんどっちに転んでも居心地の悪さと申し訳なさは消えない。
グループ担を名乗れば個人担の方に対して申し訳なさを感じる。
個人担を名乗れば「自担以外のメンバーも大好きなのになんだかすいません」と感じる。
自担を決めた上でグループ担を併用したとしてもまた申し訳ない気持ちになるし、結局小心者なのでどこに属してもきっと同じだ。

相手にどんな感情を抱かれるかなんて考えに考えても想像の範疇に過ぎないし、そこばかり考えてたら身動きが取れなくなってしまう。
自重ばかり考えていたらブログなんてやっていられなくなる。

私みたいな考えの人もいる、ということで「ジャニオタが考える担当論」の端の端くらいにでも加えていただければありがたい。


ここまで長々と文章を並べてきましたが、単純な例えを残してこの記事を締め括りたいと思います。

考えすぎて途中で訳がわからなくなったり混乱したりしましたが、単純明快にいこう。

私が思う「担当」、結論。

「担当」とは「神輿を担ぐ人」だ。
担ぐ人無くして神輿は有り得ないし一人でも担げない。祭りは始まらない。
我々ジャニオタは終わらない祭りに参加しているようなものだなーと。

私もみんなと一緒にわっしょいわっしょいしたいのでやっぱり担当を名乗らせていただくことにします。

みんなも一緒にわっしょいしようぜ!