遅ればせながら岡田さんのエッセイ「オカダのはなし」を読んだ。
なぜこのタイミングで読むことにしたのかというと、「この本を読まずして私はオタ復帰してはならない」と感じたからだ。
この本が発売されているのは知っていた。
それでも読みたいようで読みたくない、というのが本音だった。
なぜかといえば、私が「なんとなく苦手になっていった頃の岡田准一」がそこにはたくさん詰まっていそうな気がしたからだ。
読むことでその頃を思い出したり、再び彼のことを苦手に感じてしまうのではないかと危惧していた。
はっきり言って怖かったのだ。
でも最近、ブログに綴ることでV6のこれまでを振り返ったり各個人の考え方や行動について考察してみる機会が増えた。
振り返る上でもこの本をスルーするわけにはいかないと思った。
「苦いあの頃」が詰まっていたとしてもそれは事実であって、そこから目を背けてはいけない。一旦オタから足を洗っていた身としてもそこはしっかり見なければいけないと思うし、「離れた」という過去も忘れてはいけないと思っている。
おそるおそる読み始めたこの「オカダのはなし」で、私は彼の変化をしっかりと感じることとなった。
「オカダのはなし」を読んで率直に感じたこと
小難しい。めんどくさい。かっこいい単語やたら使う。哲学的。良いこと言いたがる。うまいこと言おうとする。
怒られるかもしれないがどれも私がこの本を読んで率直に感じたことだ。
だがこれはあくまで過去の岡田さんの文章を読んで、の感想だ。
この本の構成はというと、
「32歳」「23歳ー28歳」「29歳ー31歳」となっている。
この中で「23歳ー28歳」の項目、つまり2008年あたりまでの彼の文章は非常に堅苦しい。小難しい言葉が並び、やたらと哲学的なことを語る。綺麗な言葉で理想論を語る。
なんだろうこのめんどくささ…。
ここまで綴った文章だけを見るととてもじゃないがファンブログの文章には見えないと思う。申し訳ない。
だが、こう感じたのはおそらく私だけではない。
そう確信させてくれる文章が本文中にある。
いまはこの頃みたいにそんなに考えてないんですよ。
若いときはとにかくいろんなこと考えてたなあ。考えるのがもともと好きだった。
でもめんどくさいやつだったよね。繊細というか……。
このままいっていたら、バランスの悪い、嫌なやつになっていたかもしれない。
でも、この時代があって、いまがあるからそれはそれでいいんだと思う。
一生懸命だったんだよね。
(マガジンハウス「オカダのはなし」P39より)
これは「23歳ー28歳」の中の「負けず嫌いの日々」というタイトルでまとめられたエッセイを、本人が振り返ったコメントだ。
本人が振り返っても「めんどくさいやつだった」と語っている。
果たしてこのコメントを、読み手はどう受け取るのだろう?
最近彼に興味を抱き始めた方からすれば、「彼にもこんな青い時代があったんだ!」と驚く方もいるのではないだろうか。
私がこの本で1番おすすめしたい点はこの「昔書いたエッセイを自ら読み、今思うこと」がコメントとして追記されているという点だ。
すべてのエッセイに対してではなく一部のみにはなるのだが、この点が私は1番読んでいて興味深かった。
過去の自分に対して今の自分がつっこみを入れる。
これはなかなかおもしろい。
例えばこんなコメントだ。
「モラルって何だろう?」と考えていたら、結局「自分の生き方って何だろう?」という問題に行き着いた。
生きるって何だろう?ニーチェか(笑)、僕は?
(本文P44より/2006年2月・当時25歳)
「ニーチェか、僕は」だって(笑)。なんだこれ?かっこつけてんのかな。他の人が言ったらかわいいと思うけど、いまの自分は、こういうところはキライです。なんで「ニーチェ」って言う必要があるんだ?
(本文P44より/2013年頃・当時33歳頃)
私はこのコメントが 1番おもしろかった。
ツッコミが的確過ぎる。最高だ。
この「ニーチェ」に対するツッコミ以外にもいくつか見ていてニヤッとしてしまうようなものがあった。
すべてをここで紹介してしまうのと今後読まれる方の楽しみを奪ってしまいかねないのであえて書かないでおくことにする。ぜひ探してみてほしい。
単行本化するにあたり加筆されたためおそらく2013年の彼によるコメントだと思うが、ここまであっけらかんと過去の自分を否定するとは。
でも、2006年頃の岡田准一はこうだったのだ。
私が知っている「苦手になっていった頃」の岡田さんはこういう人だった。
あえて言わなくてもいい「かっこつけワード」をちらりと覗かせてみたりする。
アイドルから脱皮したかった当時の岡田さんはこういうことをしたかったのだろう。
小難しい言葉たちが並ぶ当時のエッセイからは、そういう思惑が透けて見えるような気がした。
芝居の仕事をやらせてもらえるようになった頃、「自分はこの道をがんがん行くんだ!」と気張っていた若い時期は、アイドルと呼ばれるのに抵抗を感じたことも正直あった。でも30代のいまは、もっとラフな気持ちになってきて、「人からこう見られたい」というヘンなこだわりはなくなっている。
(本文P8/32歳)※単行本帯にも掲載
アイドルと呼ばれることへの抵抗と、一流の役者として自立するための志。
「小難しい言葉を知っていて哲学的な深みのある若手役者」と見られたかったのだろうか。
直接的にではないが結果としてこの頃の行動はその後の仕事にも結びついている気がする。(時代劇や大河ドラマ等)
29歳〜32歳、確実に変わった「オカダ」
この本には23歳から32歳までの9年間の「岡田准一」が詰まっている。
28歳までの岡田准一は上でも述べたとおり堅苦しくてちょっとめんどくさい。
ファンだったしても、岡田さんのことを好きだったとしても、敬遠したくなる方もいるかもしれないくらいの文章だ。
外に向け、少し自分を大きく見せてでも何かを伝えようと発信しているのに、なぜかどんどん墓穴を掘って内へ内へ入り込んでいっているような…
私は読んでいてそんな印象を受けた。
だが29歳からの文章では自分を大きく見せようとしている雰囲気はあまり無い。
大人ぶった哲学的な言葉はなくなり、文章ひとつとっても柔らかいようなイメージ。
そこに彼の変化をしっかりと感じることができた。
もちろん真面目なところは変わっていなくて、しっかりと物事を考えるという軸はぶれていない。
実は、私が1番この本を読んでほしいのは「離れていったファン」だったりする。
少しめんどくさい「オカダ」を見てきた層にこそ、この本を読んでほしいのだ。
暴言を度々吐いて申し訳ないが、当時の岡田さんに対して「めんどくせえなコイツ」と思ったことがある方にこそ読んでほしい。
確実にあの頃からは変化している。それも確実にいいほうに。
私自身がそう感じたように、あの頃を黒歴史だと思っている方にこそこの変化を感じてほしい、知ってほしいと願うばかりだ。
「オカダ」という表記の意味を考える
今、世間で大河の主演だの軍師官兵衛だのと囃したてられちゃってるけど。俺たちにとってお前は岡田、“オカダ”の3文字に尽きるんだよ!
(「LIVE MONSTER」2014年10月19日放送分より)
上記は三宅さんの言葉だ。
売れっ子になって世間で騒がれるようになってもメンバーにとっては変わらない。肩書なんて関係なく「オカダ」の3文字に尽きると言ってのけた彼の言葉に、なぜか私は共感してしまった。
ところで、私は「岡田准一」のことを誰かと会話する中では「岡田くん」と基本的に呼んでいる。
だが改めて考えてみると、内心では「オカダ」と呼んでいることも多いのだ。これは昔からそうだった。
もちろん決して馬鹿にしているわけではない。
理由について考えてみたのだが、私が岡田さんを見る時の目線っておそらくメンバーの目線に近いのだ。
かっこつけてるんだけどもどこか一歩引いているように見えて、ヘンなところがあって、なんか抜けてて、どこか大人ぶってて。いまいち掴めないところもあったりするけど、グループ内の愛すべき末っ子。
彼が19歳の頃からじっくり見てきているが、当時からなんだかそんなふうに感じていた。
それってきっと5人のメンバーから語られる「オカダ」の話が頭にしっかり刷り込まれてきたからだ、と今さら気付いた。「お兄ちゃんたちから見た末っ子の印象」がかなり含まれている。
だから主演ドラマが決まった時も、どんどん売れていった時も、ananで脱いだ時も、映画にどんどん出演しはじめた時も、単独でCM出演が決まった時も、「よかったねオカダ!」「がんばれオカダ!」という感情が先に立った。
同時に「オカダ何やってんの!(笑)」とか、そういう感情になることも多かったような気がする。
また、彼のお顔が端正であられるのももちろん知っているし整っているしどこからどう見てもかっこいいと思っている。
「美人期」と呼ばれる頃の写真なんてもうこの世のものとは思えない。美しすぎる。
そういう感想を抱くと共に、かっこつけてる写真を見るとなんだか少し笑ってしまう時がある。これも決して馬鹿にしているわけではないのだが、なんだろう、うまく言えない。
このエッセイの中にも数々の写真が散りばめられていて突然ドン!と登場するものだから、かっこいいと思いつつちょっと笑ってしまう。
端から見たらただの変態だ。
そんな感じで愛すべき末っ子として見てきたからか、才能が花開いていく様や世間が岡田さんに注目し始めた様子を見て、本当に嬉しかった。
でもそれと同時にグループを蔑ろにしているような雰囲気が感じ取れてきて、寂しくもあった。
岡田さんの活躍や成長が、そのままイコールとして「V6の解散」に繋がると感じられて仕方がなかった。(余談にはなるがそれが私が一旦オタから離れることの一因につながった)
想像するに、こういうふうに岡田さんのことを「オカダ」と見ている古参ファンは多いのではないか。
私よりももっと昔からファンの方ならなおさら。
呼び捨ては呼び捨てでも不躾なものではなくて、なんというか、長い間V6を見ていればいるほど岡田准一=オカダになっていくような気がするのだ。感覚として。
だからこの本のタイトルの「オカダ」は、言い得て妙だと思った。
「オカダ」であって、それ以上でもそれ以下でもない。あえて記号のような表記にすることにとても意味があるように感じた。
いろんな人にいろんなふうに思ってもらえる仕事。僕が役者と呼ばれることに違和感を持つ方もいれば、しっくりくる方もいるでしょうし、アイドルの僕が好きだと言ってくださる方もいれば、そうでない人もいる。そもそも自分が何者かなんて自分で決めることではなくて、自分の姿は、人と人との間に浮かび上がるものなのだと実感しています。
(本文P8/32歳)
岡田さんのイメージは、見る側に委ねられている。
それくらいに彼の心境は変化していて、必死に「役者として見てくれ!」と行動で主張していたあの頃とは違う。
もっとラフで、もっと余裕のある、かっこいい30代になった。
三宅さんが「オカダの3文字に尽きる」と言ったように、私にとっても結局は岡田さんは「オカダの3文字に尽きる」のかもしれない。
役者として大成してもなお、どこかでやはり「オカダ」と思っている。
なんだったら世間的には大物俳優とも言えるべきポジションまで上り詰めた彼を内心「ダーオカ」と呼んでいる時もたまにある。
別に何がどうというわけでもないのだが「ダーオカ」になる時があるのだ。ここへきてオカダの3文字からダーオカの4文字にたまに進化する。謎だ。
読みたいようで読みたくなかったこの「オカダのはなし」には、やっぱりあの頃の、「苦手なオカダ」が居た。
でもそれだけでなく、その「苦手なオカダ」にツッコミを入れられるくらいに成長した「現在のオカダ」もそこには居た。
それが知れただけでも私は大満足だ。
最近岡田准一を知った方には彼の人となりが感じられる本に違いない。
そして昔の少しめんどくさかった頃の彼の片鱗もぜひ見てほしい。
「本人が綴る文章」から発せられるこのめんどくささはちら見するだけでも価値が有るような気がする。
そして昔から「オカダ」を知っている方にもぜひ一度読んでみてほしい。
「あの頃」から進み、変化を遂げていることが感じられる。
その変化をぜひ知ってほしい。知らずにいる方にこそ届いてほしい。
23歳から32歳まで、岡田さんがアイドルとして役者として悩み、そして柔軟に考えられるようになるまでの「揺れ動く感性(本文よりあえて引用、どう使われているかはぜひ確かめてみてほしい)」が収められたこの本はとても貴重だと感じた。
またここまで真面目な目線で書いてきてなんなのだが、この本を読んで改めて「あ、オカダってやっぱりヘンだったんだな」と思ったのもまた事実だということも合わせて明記しておく。
この本を読んでもう少し考察した点があるのだが、それはまた別の機会に。
最終ページには彼の直筆のコメントが書かれている。
その上手とは言えない字に、昔も今も変わらない愛らしさを感じた。