ループ ザ ループ。

好きなものについていろいろと本気出して考えてみるブログ。

「Can do! Can go!」が愛される理由


私がこの曲を知ったのは、「8時だJ」という番組だった。

 

当時の私はまだそれほどジャニーズに興味はなかったのだが、周りの女子はみんな見ているほどの人気番組だったので私も毎週欠かさず見ていた。

黄金期とも言える当時のジャニーズJr.が「Can do! Can go!」を歌い踊っている姿を見て、しばらくはJr.の曲なんだとすっかり思い込んでいた。

 

この番組で1番記憶に残っているコーナーは、とてもダンスが踊れそうにないお父さん世代のおじさん達が頑張ってダンスをする企画だ。

そのコーナーでこの曲が使われていた。

友達がこのダンスを覚えていたので私も教えてもらい、学校の休み時間に一緒に踊ってみたりもしていた。そういう意味では思い出の1曲でもある。

 

この番組が終わり数年後に私はV6にはまり、そこでようやくこの曲がV6の曲だという事実を知る。

聞き慣れていた曲ではあったがここでしっかりと曲を聴き、そこからずっとなんとなく好きだった。

 

V6ファンにも、そしてジャニーズJr.のファンにも長く愛されてきたこの曲。

なぜ好きなのかこれまであまり深く考えてこなかった。

 

というのもこの曲、じっくり聴くとよくわからない部分があるのだ。私の理解力が足りないだけなのかもしれない。

 

端的に言うと、「僕」と「君」の関係性がよくわからなかった。

 

フレーズごとではとてもぐっと来るのだが、通して聴いた時に疑問に思うこともあった。だがなんとなく流してきた。

今回その流してきた部分に対してしっかりと考えてみることにした。

 

あくまで私個人の見解なので、間違っている点も多々あるかもしれない。そこら辺はご了承願いたい。

 

歌詞全文をここに載せるのは引用ではなく無断転載になってしまうので、

Can do! Can go! - V6 - 歌詞 : 歌ネットこちらで。

 

収録アルバム:

SUPER HEROES

SUPER HEROES

  • アーティスト: V6,三宅健,井ノ原快彦,坂本昌行,岡田准一,長野博,森田剛,山田ひろし,ピート・ジェニングス,MOTSU,SION
  • 出版社/メーカー: エイベックス・トラックス
  • 発売日: 1998/02/11
  • メディア: CD
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目次

 

 

歌詞から見る楽曲の世界観

この歌詞をしっかり見てみてまず感じたのは、「1番と2番で時間が違う」ということだ。

 

1番での主人公は「過去・少年時代の自分」

1番ではあえてカタカナにしている単語がたくさん出てくる。

「僕だけに出来るコト」「シュミレイション」「大事なモノ」「ホントの事」。

中でもこの「シュミレイション」というのは特徴的だ。

そもそもシュミレイションという言葉自体が間違っており、本来なら「シミュレーション」と表現しなければならないがこの曲ではあえて「シュミレイション」としている。

 

この曲の作詞者は山田ひろし氏。数々の楽曲を手がけておられるので色々と目を通してみたが特にカタカナにするのが癖であるという風ではなかった。

やはりあえてのカタカナ表記であると見て間違いない。

 

余談だがこの方はV6の楽曲も多数手がけておられるので以下にリンクを貼っておく。

Be Yourself! - V6 - 歌詞 : 歌ネット

Shelter - 坂本昌行(20th Century) - 歌詞 : 歌ネット

Alone again - 岡田准一&20th Century - 歌詞 : 歌ネット

Knock me Real - 20th Century - 歌詞 : 歌ネット

NO DAMAGE - V6 - 歌詞 : 歌ネット

多数の名曲を生み出しており、中でもスターダスト・レビューの「木蓮の涙」は名曲中の名曲だ。世代的に言えば幽遊白書の「アンバランスなKissをして」がドンピシャ世代の私である。

 

 

話を戻し、「Can do! Can go!」の1番中にカタカナ表記の単語を増やしているのは、少年時代特有の稚拙さを表現しているのだろう。

友達が 僕より偉く 見える日は サボりたくなる

僕だけに出来るコト 見つけたいよ

こういったフレーズなどから見てもこの曲の主人公は1番では「少年」だ。サボりたくなっているのは授業だろうか。ジャニーズ的に考えるとレッスンだろうか。

 

自分にしかできないコトを見つけたい。

誰にもシミュレイションなんかされずに自分で大事なモノ、ホントの事を見つけたい。

それは夢であったり信念のことなのではないだろうか。

 

そしてこの少年は、まだそれを見つけられてはいないのだ。

 

いつもの街角で 瞳閉じて

ここから 始まると 信じるんだ

(冒頭サビ抜粋)

 

いつもの街角で 瞳閉じて

ここから 始まると 言い聞かせた

(1番サビ抜粋)

 

ここ(今)から始まると信じる。

瞳を閉じ、外部との境界を作って、じっと自分に言い聞かせている。

 

 

2番での主人公は「現在・大人になった自分」

2番になるとカタカナ単語は一切登場しなくなる。

さらに「あの頃(少年時代)の自分からは大人に見えていた年令」にまで時間が進んでいる。

そして過去の自分に対し「大して何も変わっていない」と言っているのだ。

 

夢や信念を探していた少年時代。その頃描いていた大人像は「夢をあきらめ、がむしゃらでなくなる」姿だったのかもしれない。

瞳を閉じ自分を奮い立たせながらも、ゆくゆくは自分もそうなっていくかもしれないという虚無感と戦っていた少年の自分。

だから 怖がらないで

誰だって きっと同じさ

君の夢は 必ず 輝くから

このフレーズでの「君」に当たるのは「過去の自分」だ。

 

「大人になった自分も少年時代と何も変わっていない。

だから変わっていくことを怖れずに夢を追いかけて」と、少年だった自分に言っているのがこの部分であると私は解釈する。

 

さらにその直後の部分ではまたも「僕」と「君」が登場する。

あきらめることなら いつでも出来る時代さ

だけど僕は 君に逢うまで あきらめない

 

「僕」は現在の自分だとして、「君」は誰だ?

 

この何度も何度も登場する「僕」と「君」がこの歌詞の肝だと思うのだが、同時に混乱するポイントでもあり私が長年考えることを放棄していた部分でもある。

 

じっくりじっくり考えてみた結果、こう解釈した。

 

私の解釈では「僕=君」なのだ。

基本的には「僕=現在の自分」「君=過去の自分」と解釈していたのだが、改めて考えてみるとこれはどちらも「自分」であることに違いはない。

 

では、「君に逢うまであきらめない」ということはつまり、「君に逢えたらあきらめる」ということなのか?

 

続くサビの歌詞はこうだ。

信じて 君の道 走り抜けて

(略)

僕等は 新しい世界へゆこう 

君に逢うまであきらめない、と言ったわりにはなんだか「君」と「僕」の距離感が開いたように感じた。

 

君は君の道を走り抜けて、僕(等)は新しい世界へゆく。

これでは世界観が交わらないのではないか?

 

疑問に感じたのだが、もしかするとそれこそが答えなのかもしれない。

 

つまり逢うことはないのだ。

「君に逢うまであきらめない」=「永遠にあきらめない」ということ。

 

逢うことはないということを踏まえれば、やはり「君=過去の自分」と思っていいのかもしれない。今の自分と過去の自分が遭遇することは絶対にないのだから。

 

過去の自分に対して言えることは「君の道を走り抜けて」とアドバイスすることだけであり、現在の自分はここからもっと先へ進んでゆく。

「僕等は新しい世界(未来)へゆこう」と、更に一歩前を見ているのだ。

 

さらに注目すべきは「僕等」という部分。

「僕」ではなく「僕」。果たしてこれは何を意味しているのか。

 

想像するに、「大人になった主人公(2番)」には信頼できる仲間がいるのではないだろうか。

 

「友達とそれなりに仲良くしつつも内心では少し"自分は特別"と思っている少年(1番)」に対し、「誰だってきっと同じさ」と2番では言っている。心のどこかで感じていた孤独感に対する言葉のように感じた。

 

私の歌詞解釈をざっくりまとめると

「若かった頃の自分へ贈るエール」であると同時に、「更に未来へ進む」という意志・希望を持ち現在の自分を鼓舞する歌詞。 

 

 

では、なぜ広く愛されているのか?

長ったらしく歌詞を私なりに解釈し考察してみたのだが、ここからが本題だ。

なぜこの曲が長きに渡って愛されているのだろうか?

単純に歌い継がれているお決まりの曲だから!と言ってしまえばそれまでなのだが、私なりに分析してみた。

 

「君」と「僕」の解釈の差

「君」と「僕」というのは共感を得るには非常に便利な言葉だ。

例えばこの曲の2番ならばどうだろうか。

「僕=メンバー」と考えると「君=私(ファン)」のようにも捉えられる。そう考えるとこの曲は「私の背中を押してくれる応援ソング」になる。

 

今回はあえて「1曲の歌詞として完結する世界観」として歌詞を考察してみた。

だが言葉ごとフレーズごとに見た時にも、聴き手の背中を押し、そして情熱をかき立てるような歌詞であり、それが私が長年感じていた「なんとなく好き」につながっていたのだと思う。

 

また「僕等」という言葉も曲者だ。

この曲を歌うのはV6やジャニーズJr.であり、グループ。つまり複数形がしっくりくる。

グループが歌う「僕等」の破壊力は凄まじくそれだけでもロマンがある、と私は常々思っている。

 

年令によって共感できる部分が変わる

歌詞解釈として、主人公は1番では少年であり2番では大人になっているということを書いた。

この曲のおもしろいところは、聴き手の年令によってどちらの歌詞に強く共感するかが変わってくるというところだと思う。

 

10代の方にはきっと1番の歌詞がしっくりくるはずだ。私も昔は1番に強く共感していた。シュミレイションされたくないし、自分だけに出来るコトを見つけたかった。

 

そしてある程度年令を重ねると今度は2番の歌詞が身にしみてくる。

年令を重ねれば重ねるほど大人になっていくのだろうと思っていたが、人間って案外変わらないものだ。少しの変化はあっても、結局根本的な部分は変わらない。

変わらないということは1番の少年のような気持ちもどこかにまだ持ち合わせているわけで、結局年を取ろうが1番にも共感できたりする。

 

 

「ここから始まる」その瞬間を共有できているような感覚

ここまでいろいろと書いてきたのだが1番の理由はこれなのかもしれないと思っている。

 

それは「ここから始まっていく」ということを予感させてくれる、ということだ。

 

静かに始まるイントロ、勢い良く始まるサビ。

ここから始まり、さらに新しい世界へ連れて行ってくれるようなワクワク感。始まりのその瞬間に立ち会えているのではないかという感動。

 

この感覚が「ジャニーズJr.」という肩書にもピッタリはまったからこそ、長く愛されて歌い継がれていったのではないだろうか。

まだデビューしていないキラキラと輝く年頃の男の子たちが歌うこの歌詞は、相当な威力がある。

 

「新しい世界へゆこう」なんて歌詞はなかなか無い。

これが「ジャニーズ」というきらびやかでありながら独特な世界観を象徴していると思う。

 

V6ほどベテランになってしまえばまたそれはそれとしてぐっとくるものがあるのだが、初々しくもかっこつけてこの曲を歌う若い子たちを見ると「ああ、ジャニーズだ…!」としみじみ思ってしまうのだ。

 

 

「Can do! Can go!」は、ジャニーズの世界観を象徴している。

 

 深く考えようが浅く考えようが、結局のところこの曲の魅力はそれに尽きる気がした。

 

 

ジャニーズの楽曲も最近では割と洒落たものが増えている。

だが、こういう「王道のジャニーズソング」も伝統としてしっかり残していってほしいものだ。