ループ ザ ループ。

好きなものについていろいろと本気出して考えてみるブログ。

中高生ジャニオタのコンサート事情とはてなブログの怖さ


初めて「はてなブログ」において他のブログへの言及をしてみようと思う。

 

先日話題になっていたこの記事。

学校を早退しコンサートに行ったら、翌日には知れ渡っていて生徒指導になり教師陣に盛大にヲタバレした話【前編】 - こじらせまくり

後編について - こじらせまくり

 

読まれた方も多いのではないだろうか。

あまりにも物議を醸したため後編については筆者さんの意向で現在は取り下げられているのだが、私は下げられる前に読ませていただいた。

 

はてなブロガーさん以外にはあまりピンとこないかもしれないのだが、実ははてなブログ記事中で別のはてなブログ記事へのリンクを貼るとその方にお知らせがいくようになっている。

 

要するに私が今リンクを貼ったことで、筆者さんには「こんなことを書いたヤツがいますぜ、ダンナ…!」とばかりに通知がいく。

だからこそ私のような小心者は他ブログへの言及は非常にしづらいし、それなりの責任が伴う。

 

ちなみにこれはコメント欄へ投稿した時やはてなスター・はてなブックマークをつけた時でも同じ。ブログ主さんにはどれもこれもお知らせが届く仕様になっている。

 

私も何度か言及していただいたことがあるのだが、通知が来るたびに「何か不備を指摘されているのかもしれない…」「しばかれるのかもしれない…」とビクビクしている。

通知が来るたびに震え上がり、内容を確認してはホッとし、褒められている場合はあとからじわじわと嬉しさがやってくる。

 

記事を書く自由があれば、その記事を批評する自由もある。

 

今回筆者さんの記事が拡散されたことで、あらためて「インターネット上に文章を載せることの難しさ」についても色々と考えさせられた。

なので遅ればせながら、私も私なりに今回の件について少し綴らせていただきたいと思う。

 

 

目次 

 

 

 

心配性な私が考えたこと

内容はタイトルのとおり、だった。

前編で語られていたのは大興奮のコンサートレポート。文章は1万字を超えている。

私もよく1万字を超える文章を書いているのでわかるが、この文字量で文章を綴るのはやる気とか熱さ以前に単純にものすごく時間がかかる。

まとめようと努力すると手間はかかるわ時間はかかるわ、最終的に自らその文字量を「キモイですね」ってつっこんでしまうあたりまでめちゃくちゃわかる。

 

とても熱を帯びた勢いのある文章には若さが溢れていて興奮が伝わってくる。

私が高校生の時にこれだけの文字数で、こんなにも勢いのある文章を書けたかといえば絶対に無理だ。

かといって今書いてもこの勢いは出せない。読後には「私ももっと勢いのある記事が書きたいなぁ」と、うらやましく思ってしまったほど。

ジャニオタとして、また同じように学生時代にはじめてのコンサート参戦を体験した者としては懐かしさも覚えた。

 

しかしながら、私がこの文章を読んでいて「ここから記事が爆発的に拡散されて社会問題化したら怖いな」という不安も抱いた。

 

そんな大問題化するわけないじゃん、という声も聞こえてきそうである。

 

だが私は心配性だ。

想像に想像を重ねて震え上がったあとで、「んなこたないわなー!ナイナイ!はははー!」と悪い方向へ向かって集合した考えを解散させる。

とりあえず一旦想像してしまうのはもうクセだ。

 

「学生が学校をサボってコンサートへ行く」、これはおそらく同年代から見ればヒーロー的な行いに価する。

それに憧れる者は当然いるだろう。

実行している方も、きっとこの筆者さん以外にもたくさんいるのではないか。

 

でもそれが公に出ることによってどうなることが想定されるか。

問題が深刻化すればどうなるか。

 

平日、授業そっちのけでコンサートに行く事例が多発する。

インターネット上で問題視され、社会問題としてその事例があらわになって叩かれるのは筆者さんだけではない、ということ。

 

嵐の人気がとてつもないのは私も知っている。

時間やお金を投げ打ってでもそこへ愛情を注ぎたい方が相当な数おられるのも知っている。露出の多さもコンサートチケット入手の大変さも、大多数の人間がなんとなくは知っているはずだ。

 

ただ、「嵐がそうさせた」ということの一つとして「学校を早退させた」を並べるのは非常にまずい気がした。 

 

◯◯のおかげ」と「◯◯のせい」が同じような言い回しであるのに意味合い的には真逆なように、どちらの感情を抱かれるかは紙一重だ。

  

「好き」を振りかざせば、何をしても許されるわけではないということ。

私は以前こんなことを書いた。

そこでそのファンがどう見られるか、これって案外大事だと私は思っている。

その時、その面識もない一般の方からすれば、私たちは「◯◯のファン」以外の何者でもない。 

 「◯◯のファン」としての行動が迷惑をかけるのは最終的に一体誰になるのか。 

それはファンとして動く以上、常に頭の片隅に置いておかなければいけない。リアルの世界でも、ネットの世界でも。

あなたが起こしたその問題行動で批判されるのは、「あなた」でありさらにその大好きな「◯◯」になってしまう、ということを理解してほしい。 

 

ここだけ抜き出して引用すると、いかにも「我々ファンは!自覚を持たなければ!ならない!」と言うような押し付けがましい奴のように感じられて我ながら鬱陶しいのだが、決してそう言いたいわけではないというのは声を大にして言っておきたい。

 

どちらかといえばそういう押さえつけ方をしてくる方は苦手だ。

結局は自分でしっかりと考えたうえで行動すればいい。

ファンとしてのあり方に正解はなく無理やり同じ方向を向かせるのもおかしな話で、私がこういった話題を書く時に根底にあるのは「一度じっくり考えよう」という意見だけである。

深く考えずに、無知な状態で何かをしでかしてしまうことが一番こわい。

 

 

私が危惧する一番おそろしい展開

中高生ジャニオタの同事例が多発することでインターネット上で問題になり、社会問題化したその先に想像する一番怖いこと。

 

それはジャニーズ事務所が対応せざるをえなくなり、

「じゃあ中高生にチケットを売らないようにしよう」

という判断をくだすことだ。

 

今回、私お得意のネガティブ想像で最終的にたどり着いたのはこれである。

 

チケットを取るためにはまずはファンクラブに入らなければならない。

ジャニーズの各ファンクラブに入会するためには郵便局で振込用紙に記入をし、入会金と年会費を振り込む。

その際に必要な記入事項のひとつには生年月日だってある。

当然、住所だって握られている。

 

ということは、「18歳以下の名義からの平日公演は申し込み不可」「申し込んだとしても当選させない」などとという条件を行使する選択肢だってあるといえばあるのではないか。

「遠方在住」なら、それも判断基準のひとつにされるかもしれない。

 

「20周年のアニバーサリーコンサートだから、デビュー当時からファンクラブに入会してくれている人は必ずどこかしらの公演でチケットが当選するように配慮した」

同事務所内グループのコンサートMCにてそんな話題があがり、実際にそんな事例を知った私はとても感動した。

 

でも「そういう条件で拾い上げることができるのなら、逆に一定の条件下で切り捨てることもできるのではないか」とも思ったのだ。

倫理や労力を考慮しなければ、それは「やろうと思えばできること」なのかもしれない。

 

1つのきっかけが影響して、それまで出来ていたことが禁止になるということ。

それをどうにか上手く例えられないものかと悩んでいたところ、「これだ!」というお話に出くわした。

 

違う畑のアーティストさんがラジオで語っていた話にはなるのだが、私が考えていたのもつまりはこういうことなので少し文字起こししてみた。

 

このお話をされていたのはポルノグラフィティの新藤晴一さん。

広島弁混じりなので文字で書き出すと少しわかりづらいところもあるかもしれないが、そこはご容赦願いたい。

 

この話題は「カフェに居座っていい時間とは何時間なのか?」というネタから繰り広げられたもので、何気ない話ではあるのだが少し大きな話として展開されていく。

 

「いつまでカフェにいていいか問題」はきっと、利用者の良心みたいなとこに委ねられているから難しいところはあるけども、まあ「大体2時間かな?」みたいなところで回っとるはず。

あれ、やっぱみんながみんな8時間おるようになると「2時間以内にしてくださいね」みたいなこといちいち書かんといけんかったり、漫喫(漫画喫茶)みたいに時刻の制限を絶対つけられると思うけど「まあ大体2時間くらいですね最大で。でもまあ空き具合によって、それくらいですよ。」みたいな…なんていうかな、利用者…日本人の、人間の、話が大きいけど(笑)。そういう良心で成り立ってるところが多くて。

(bayfm「カフェイン11」/2016年4月18日)

 

「カフェに居座っていい時間の長さ」を、私たちは空気を読んで察知する。

それがこの話の中での「2時間」。

もしお客全員がそれを超過して居座るようになってしまったら、カフェ側は客に対して制限をもうけるしかなくなる。

 

「なんとなく」で成り立っている自由。

当たり前のようにそこにある自由は、もしかすると積み重なるマナー違反によって失われるかもしれない。

 

そして晴一さんのこの話題は別の例えを出してまだ続く。

こないだ花見に行ったんですけど。この花見も、俺が行った花見のところはテーブルを絶対使っちゃいけんっていう所。

それはローテーブルも。ちょっと理由が全然わからんのじゃけど。

もしかしたらレジャーシートをひいて…ひくのはいいと。

公園じゃから、座ったらいけないっていうルールもないし、まあそこで物食べるのも別にいいけど、たぶん公園の管理局の人の理屈なのかどうかわかんないけど。

机を許してしまったら…ローテーブルよ?普通にキャンプ用のダイニングテーブルみたいなんを持ち込むヤツがいるかもしれない。

それに普通のイスを持ち込んで、さらにはターフ(日よけのためのテント)までかけてやると収拾がつかなくなる、みたいな理屈なのかもしれない。俺の予想なんだけど。

それくらいのことを恐れてると思わんと、あのちっちゃいローテーブルを…ローテーブルよ?出すことに、なんであんなうるさいんかわからんけど、きっとその辺も本当は花見をやってるお客さん同士、やってる人本人のなんかそういう良心みたいなところで成り立つべきもんなんだろうし、成り立ってきたんだろうし。

だからそこでめっちゃ暴れよったりする人がおったら、隣の席、隣の隣のちょっと怖いお兄ちゃんが「兄ちゃんら、ちょっとうるさいぞ!」って言ったりよ?

そういう「言われたり言ったりで成り立っているようなもの」が、今そういうルールを作らないとできないようになってきたのかなあと、思った話が、ありましたよ。

(bayfm「カフェイン11」/2016年4月18日)

 

よっぽどローテーブルの持ち込み禁止が頭の中で引っかかったらしい。

そしてなぜ「ローテーブルがいけないのか?」について、かなり考え込んだのだろう。

だってたかがローテーブルだ。(花見にテーブルを持ち込む発想が無い私からすればローテーブルですら「いる?ローテーブルいる?無くてもいけるんじゃない?」と思ってしまったが)

私は長くポルノグラフィティが好きだが、晴一さんの好きなところはこういう部分でもある。

私が今回の件で言いたかったのはつまりはこういう考え方なのだ。

 

小さなテーブルの持ち込みを許せば、いつかもっと大きなテーブルを持ち込む人間が出てくるかもしれない。

それが許されると今度はイスまで持ち込む人間が出てきて、さらには日よけ用のテントを持ち込む人間が出てくるかもしれない。

 

つまり、収拾がつかなくなる。

 

自由を与えた結果収拾がつかなくなるくらいなら、もう小さいテーブルも禁止にしてしまえ。

大きな害が出る前に小さな芽から摘んでしまおう。

 

「なんでそんなルールを決められなくてはいけないのか?」というおかしなルールの中にはきっとこういうものも多い。

でも「問題が大きくなってしまうと禁止せざるをえなくなる」という事情が発生するのも確かなのだ。わかるんだけどわからないような、そんな事情が。

   

「なんとなく」や、暗黙の了解のようなかたちで許されているものはたくさんある。

そして「表向きで肯定してはいけないこと」も確かにある。

 

ましてやこうしてネット上でそれを堂々と語られてしまうと、どうしてもそれを全肯定してはいけない気持ちになってしまう。

 

今回の件に関しては武勇伝として語るにはあまりにも早すぎたという印象を受けた。

もしもこれが、数年経ってから「あの頃こんなことをやりましたよ」というふうな過去の話であったなら受け取る印象はまた違ったのだろう。

 

年を重ねれば重ねるほど「たとえ本心でそう思っていなかったとしても表向きではそう言わなければいけないこと」や「公の場では認めてはいけないこと」は存在するのだなあと感じる場面が増えてきた。

 

たとえば今回のことがもっともっと大きくなってしまったとする。

もしも最終的にそのグループのメンバーたちにこの話題が振られたとして、発言できる答えとしてはひとつしかない。

 

決して「学校の授業を抜けてコンサートに来てもOK!どんどん来てください」なんて言えないはずだ。

 

それは彼らが内に抱く感情とはまた別のお話であって、背負っているものや世間的な事情。

アイドルとして、人に夢を与える職種として、芸能事務所に所属しクリーンなイメージを保ちながら活躍しつづけていく上で、認めてはいけないこと。

 

だからこそ「世間一般的な模範解答として良しとされない行為」を、こうしてインターネット上に晒すことは危険なのだといえる。

 

 

ところで、かっこいい非行のイメージとして私は尾崎豊の「15の夜」の「盗んだバイクで走り出す」というフレーズが真っ先に思い浮かぶ。

このフレーズって最高にかっこいい。

しかしかっこいいとは思っても私は実際にバイクを盗まないし、15歳に対して「バイクを盗め!」とも言わない。

 

もしかすると「盗んだバイクで走り出す」、このフレーズを誰かのファンである人間に置き換えて表現するのならば「学校を休んで遠征する」になるのかもしれないな、と思った。

 

 

中高生よコンサートへ行こう

最近しみじみ思うことがある。

 

私がはじめてコンサートに行ったのは、中3の時だった。

当時自分の中ではわりと「もう子供じゃないぜ!」感はあったのだが今考えると間違いなく子供だった。

会場である大阪城ホールまではそこそこの距離があり電車で行こうと思っていたのだが、当日は親が車で送り迎えをしてくれることになった。14時開演、終演してからまっすぐ帰るとすれば真っ暗になる時間帯までには帰宅できるのに。

あの頃は「ラッキー!イエーイ」くらいに思っていたが、今考えるとそれなりに心配だったのだろう。

私はコンサートに行くようになるまで子供だけで電車に乗ることも滅多になかったような子だった。

また当時大阪城ホール周辺には路上で生活しておられる方も多く居て、あらためて考えるとそのあたりも不安要素だったのかもしれない。実際私もその光景を目の当たりにしてなんだかこわく感じたことを思い出す。

 

そんなことを思い返していると、ふと考えるのだ。

「そもそもよくもまあ中学生名義相手にチケットを売ってくれたよなあ…」と。

 

もちろんファンであるということに大人も子供もなく、機会は平等に与えられるべきではある。

 

でも私がエライ人であるならばはっきり言って中学生よりも大人にチケットを売りたい。

未成年にチケットを売るより、経済状況がしっかりとしているであろう大人から確実にお金を搾取したい。

 

アラサーになったズルい私は、そんなことをぼんやりと考える。

 

だからこそ中3だった私相手にチケットを売ってくれたことになんだか無性に感謝したくなる時があるのだ。

向こうさんからすれば「はあ?金さえ取れれば別に誰からでも良いですけれども??」というお話なのかもしれないが。

 

中3で生まれて初めてコンサートに行き、現場の楽しさを知った私は今もなお様々な現場に足を運ぶ。それはジャニーズだけに限らない。

 

「ホンモノ」を実際に見ることで得られる感動を知った。

十代半ばの多感な時期にこの体験ができたのは本当に大きいと感じている私は、「中高生にこそぜひ現場に行ってほしい」とも思ってしまう。

 

はっきり言えば推奨派で、そういう道をたどってきた1人としては価値観が変わるような鮮やかな世界をぜひ体感してほしいし、中高生だからこそ感じられることだってきっとある。

「そんなこと言ったってそもそもチケットが取れないのにどうしろと!?」という意見も聞こえてきそうなのだが、そこはもう運次第なので私には健闘を祈ることしかできない…。

 

サボりについても正直なところ「ひっそりこっそりと完全犯罪級で遂行するのならアリなんじゃないか?」と思っている。

当然ながら、やらないにこしたことはない。 

私はたまたま行きたい公演の日程が夏休み中であったり土日開催だったため「平日授業をサボらなければいけない」という事態に直面したことはなかった。

たとえ直面していたとしてもおそらく親が許さなかったと思うので、決行は難しかっただろう。

 

中高生が持つ熱量ってたぶん大人が思っているよりずっと凄い。

くだらないことだと思うかもしれないが真剣なのだ。

 

学校生活が基本な暮らしは視野が狭くなりがちで、お金はなくとも時間はかけられるという環境から純粋培養で育つ濃いファンも多い。

寝ても覚めても「ファン」で、基準がそこ。

少なくとも私はそんな残念なヤツだった。

 

地方にお住まいならとりあえず「なぜ私はこの地に生まれたのか…」と一度は仰々しく出生を恨むことになるだろう。

一見しょうもない悩みなのだが地方民は理不尽に切り捨てられることも多いため、あまりにないがしろにされるとしまいには神をも恨みだす

最終的に「なぜ私ばかりがこんな目に…」くらいには思っていた。

自分だけがのけ者にされているような気分にもなっていた。

 

今振り返ると無駄に重々しく考えていた自分がおもしろくて笑えてくる。

でも当時はわりと真剣に悩んでいて、たぶん本当に真剣だったからこそ今こうしておもしろく感じるのだろう。

 

大好きすぎて授業よりもそちらを優先したい気持ちは、痛いほどわかる。

好きだから本人を見たい、それは悪いことではなくて当然芽生える感情だ。

10代も20代も30代も40代も50代も60代も、それ以上だってみんな同じ。

だからこそ私自身は筆者さんの感情までを全否定はできない。

 

以前書いた記事からもう一言引用しておきたい。

世間一般的なルールにのっとり、その正しさを主張することは簡単だ。

正論を振りかざして頭ごなしに否定することは誰にだってできる。

でも感情については、考えれば考えるほど全てを肯定することも否定することもできない。それに対して白黒つけるというのは非常に難しく、私は結論が出せずにいる。

「音漏れ参戦」を受けて考えたこと - ループ ザ ループ。

 

なお今回の記事のタイトルを「学生」ではなく「中高生」としたのは、18歳以上になると自ら選べる幅がぐっと広がるからである。

個人的な感覚で言うと「義務教育か否か」というよりも「18歳以上か以下か」ということのほうが分類としてしっくりくるため、あえてそう表現させていただいた。

 

 

はてなブログっておもしろいけどある意味怖い

「はてなブログ」は、秀逸な文章ともたくさん出会えるし私も書く側として利用していてとても楽しい。 

 

しかし今回のことであらためて感じたが、よくもわるくも一度火がつくと拡散力がすさまじいのだ。

 

今回言及させていただいた記事が多くの方に拡散されることになった1つのきっかけとして、「はてなブックマーク」がある。

はてなブックマークをつけると掲示板のような形で一言コメントが書けるのだが、そこには賛辞も批判も同じように並ぶ。

その数が増えるほどまた多くの人の目にふれる機会が増える。反応した方が多いほど、そうして記事はよくもわるくもどんどん広まっていく。

作者の思うところとは別の方向に進んで行くことだってある。

 

記憶に新しい「保育園落ちた日本死ね!!!」の記事。

読まれた方も多いと思うが、これははてな匿名ダイアリーを使って書かれたものだ。

 

インターネット上に匿名で書いた文章でも、時に世界を動かすことができる。

 

これはとても夢がある話で、同時にネット上に文章をさらしている身としては恐怖すら感じた。

もしかしたら強い気持ちで書いた文章でなくても何かを動かしてしまう危険性があるのだ。たとえそれが万が一、億が一の可能性にしか過ぎないとしても。

 

「ペンは剣よりも強し」という言葉があるが、時代はもはや「ネットは剣よりも強し」なのかもしれない。

 

ツイッターなどで炎上する案件の多くは何気ない投稿から始まる。

仲間内で「おもしろいでしょ?」と共有したかった話題や写真が世間の目に触れることでシャレにならなくなる。

内輪なら笑い話で済むことも笑いごとでは済まなくなる。

 

すべての人にインターネット上でなにかを発信する自由がある。

でもだからといって何でも言っていいのかと言えばそうでもない。

 

はてなブログを利用して文章を綴っていて、その加減は本当にむずかしいなと感じている。

 

「好き」は何を書いてもいい理由にはならないし、「好き」を振りかざして書く文章は時にその対象へ迷惑をかける……かもしれない。

 

そんなことを考えると迂闊になんでも書けないような気持ちにもなる。

 

おもしろおかしく綴った文章もいつか誰かに叩かれるかもしれない。

何にでも噛み付きたがる人というのもいるし、どこのどんな立派な人が書いた文章であろうがケチをつけようと思えばいくらでもつけられる。

 

かといってそれを恐れているとネット上は善人づらした正論ばかりがあふれる全然おもしろみのない世界になるだろうし…と考えると「ブログをやる意味とは?」というところまで考え込んでしまう。

 

 

ブログを書くって、楽しいけど本当にむずかしい。

はてなブログっておもしろいけどこわいなと、あらためて思った。