ループ ザ ループ。

好きなものについていろいろと本気出して考えてみるブログ。

「メディアリテラシーとネットリテラシー」と「Twitterとブログ」と「ファン」


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今日で1月も終わり。

様々な芸能ニュースが駆け巡り、なんとも長い1ヶ月だった気がする。

こんな1ヶ月になるなんて誰が予想しただろうか。

 

そんな中で接することの増えた「リテラシー」という言葉。

私は主に「メディアリテラシー」「ネットリテラシー」という言葉としてネット上で目にした。

 

「なるほどねー大事だよねー」なんて思いながら流し読みしている方も多いのではないか。

なぜなら私もそうだったからだ。

 

テレビや新聞、インターネットと向き合うことが増えた世界で問われることが多くなった「リテラシー」。

 

1月の総まとめとして、私はこの言葉について本気を出して考えてみることにした。

 

 

目次 

 

 

 

「リテラシー」とは何なのか

まず、リテラシーとは何なのか。

「なんらかの分野で用いられている記述体系を理解し、整理し、活用する能力」

「様々な言語、コミュニケーションの媒体(例えば、ボディランゲージ、画像、映像 等まで含む)を適切に読み取り、適切に分析し、適切にその媒体で記述・表現できること」

「情報がある形で提示されるに至った経緯や、発信者が隠そうとしている意図や目的まで批判的に見抜く能力」

(wikipedia「リテラシー」の項目より)

 

ものすごく端的に言うと「手に入れた情報をうまく使う能力」

 

その対象が「メディア」であれば「メディアリテラシー」

つまりテレビや新聞などのメディアを通して得た情報をしっかりと処理する能力のことだ。

 

では、なぜこの「メディアリテラシー」という言葉を目にする機会が急激に増えたのか。

 

それは、私たちが「本当に正しい情報なのか?」と思わされるような報道に出会う場面が増えたからという理由に他ならない。

 

疑問を抱かざるをえない報道に出会うことによって、私たちは急激に「メディアを上手く使う能力」を求められているような気分になっている。

もちろんそれは急に求められるようになったわけではなく、今までもそこにあった問題に気付いていなかっただけだ。

 

薄々勘付くだけではなく、知ってしまったのだ。

示される情報の全てが真実ではないということを。

 

「情報がある形で提示されるに至った経緯や、発信者が隠そうとしている意図や目的まで批判的に見抜く能力」

1月、最も世間を賑わせたSMAPについての報道で特に取り沙汰されたのは、ネットも含めたこの「メディアリテラシー」だった。

 

テレビや新聞などから得た情報を適切に読み取ることが出来ただろうか。

そしてそこから得た情報を発信しようとした時、適切な形でインターネットを使えていただろうか。

 

 

「リテラシー」に定義はあるのだろうか

この手の問題を考えていると突き当たるのが「答えはあるのか?」という話。

「問題」には「結論」が付きものである。

 

多くの人はそれを見出すために頭を使い、時には人と意見を交わし、ある時には真逆の答えを持つ者を排除しようとする。

 

私がこれから綴ろうとしているのは答えを求めているのではない文章だ。

誰かと意見を戦わせる気もなければ、これが正しいと言うつもりもない。

 

「リテラシー」は押し付けるものではないと感じているし、それは誰かに教えられて身につく感覚ではないと思うからだ。

 

あくまで自分で身につけなければいけない。

 

だからこそ私は徹底的に調べるし、納得がいくまで考えるし、とことん迷う。

 

 

「ネットリテラシー」と「ファン」

インターネットの世界で散々言われるのが「著作権」と「肖像権(パブリシティ権)」。

 

はっきり言ってこの言葉を目にしただけで「あ、もうイイっす」となる方も多いと思う。

 

私だって嫌だ。

もうこの字面を見るだけで「うげー」と思う。

ぜひ今からでも、もっと親しみやすい言葉に変えてほしい。

 

これはこういう権利なのだ!ということについて考える前に、少し違った方向からこの権利について考えてみる。

 

 

人はなぜインターネットに好きな芸能人の写真を載せるのか?

大好きな芸能人の姿をネットで発信したことがあるファンはどれくらいの割合なのだろうか。

 

見るのではなく、見せる側。インターネットにおいて「載せる」ということは同時に「誰かに見せる」ということを意味する。

 

見せたい、共有したい。

 

だが誰かに「何か」を伝えたい時、言葉で表現できることには限界がある。

それが大好きな芸能人のことであればなおさらだ。

 

その格好良さや可愛らしさ、雰囲気は言葉ではなかなか伝わらない。

画像を見てもらえれば一瞬で伝えられるのに。

 

こんなに素晴らしい歌やダンスを、そのパフォーマンスを、言葉では表現できない。

動画を見てもらえれば一瞬で伝えられるのに。

 

その結果、「見てほしい!」と画像や動画を載せる。

 

そこには権利を侵害しているという概念はない。

なぜかと言えばお金が絡んでいないからということが大きい気がする。

 

それが法的に見て良いのか悪いのかとは別にして、載せる側に悪気はないのだ。

 

罪悪感のある人も、おそらくこう言い聞かせているだろう。

 

「みんなやっているし、」

「誰かに怒られたら消せばいいし、」

「誰かに注意されたらやめよう。」

 

はっきり言って私は、その「誰か」になるつもりはない。

怒るつもりもなければ注意する気もない。

 

著作権と肖像権・パブリシティ権について考えていると、私はその結論にたどり着いた。

 

 

著作権と肖像権・パブリシティ権の穴

「著作権」という言葉を聞いたことがないという方はいないだろう。

それがどういった権利なのかもおそらく、なんとなく程度には知っているはずだ。

 

肖像権とパブリシティ権については、このサイトが非常にわかりやすかった。

中でも「キッズページ」では4コママンガでそれぞれの権利が説明されており、ポップなオチまでついている。

 

難しい権利についてのページでありながらなんとも平和な雰囲気が漂っていて、小難しいページばかりを「うげー」と思いながら辿っていた私にとっては癒やしだった。お礼を言いたいくらいである。

 

私の思い描く理想のアラサーは「小難しいページを簡単に理解できて当たり前」だったはずなのだが、いまだにキッズページで「なるほどー!!」と思ってしまっているあたり少し悲しい。

そんなことを言い始めるとまた盛大に話が逸れるので、私が「頭が可哀想なアラサー」だという事実についてはひとまず置いておく。

 

いろいろと調べたのだが、私が説明したいのは実はその「罪の重さ」ではない。

 

「これらはすべて親告罪」だということ。

そこが重要なのだ。

 

親告罪とは何か。

「権利を持つ者が訴えを起こすことによって罪になる」、つまり性格の悪い言い方をしてしまえば「訴えられなければセーフ」という性質を持った罪だ。

 

権利を主張できるのはあくまで「本人」。

 

「本人」とまとめてしまうと語弊があるかもしれないが、要するに公的機関が「コラー!!」とやってくるかどうか、といった感じだろうか。

画像や動画をインターネットに載せたところでパトカーがサイレンを鳴らして追いかけてくるかと言えば、そんなわけもない。

 

そういった性質の問題ではないからこそ罪の意識は薄くなり、考え方に個人差が生じる。

 

 

自由度が高いからこそ「リテラシー」が問われる

著作権や肖像権・パブリシティ権については、グレーな部分が非常に大きい。

 

例えば、昨今とても一般化されてきた「コミケ*1」及び「同人誌」。

オタク文化が広がりいまや市民権を得てきたような気さえしてしまうが、これも厳密に言えば著作権的によろしくはない。

 

とてもデリケートな二次創作文化を、現在のメディアではなんとも好意的に扱っている。

よく考えればグレーな世界であるはずなのにまるでそれが当然のもののように扱われている現在の状況は、端から見ていだけでも結構危うく感じてしまう。

 

昔からこういった文化はあくまでひっそりこっそり、それらを愛する人によって育まれてきた。

良識を持った人ほどいまだにその姿勢を保っている気がするし、それがポップに扱われすぎている現代は見ていてなんだかハラハラしてしまう。

 

何気なく当然のように差し出されるものに対して、危機感を抱かない人間は多い。

 

抱かないというべきか、抱けないというべきか。

 

はじめからその文化を「ポップなもの」と認識していればその裏にある「危うさ」については知らないままだ。

 

存在すら知らないのに、危機感が抱けるわけがない。

この認識のズレを生み出したのはやはり「メディア」の存在が大きいのではないか。

 

基本的にメディアが扱うものというのは視点が一方的な場合が多い。

良い面もしくは悪い面、そのどちらかしかクローズアップされなければ目線が偏るのも無理はない。

「これこそが真実である」、そういう差し出し方をされればそのまま飲み込んでしまう人も多いのだ。

 

そんなふうに考えていくと「メディア」というもの巨大さと影響力、その恐ろしさに震え上がりそうになる私である。

 

 

では、「著作権」というものがもっと厳しく扱われるようになればどうなるか。

 

コミケに公的機関の方々が乗り込んできて裏カジノを摘発するかのごとく「確保ー!!!」と人々を取り押さえ、あの場は修羅場と化すかもしれない。地獄絵図である。

 

なぜそんな事態が起こらないかと言えば、著作権を持つ側が二次創作を容認しているからだ。

親告罪だからこそ、ギリギリ守られているその「グレーな範囲」の中で多くの人々が「表現すること」を楽しんでいる。

 

「暗黙の了解」

親告罪にはその言葉がよく付きまとう。 

 

 

 

自由の中の、どこで線を引くか。

ここで話を「ネットリテラシー」に戻す。

「様々な言語、コミュニケーションの媒体(例えば、ボディランゲージ、画像、映像 等まで含む)を適切に読み取り、適切に分析し、適切にその媒体で記述・表現できること」

(wikipedia「リテラシー」の項目より)

 

つまりネットリテラシーとは、「ネットで得た情報を適切に読み取り分析すること」「ネット上において適切な記述・表現をすること」

「権利」の面でネットリテラシーを考えた時、後者でつまづく方は多いのではないだろうか。

 

画像や動画をインターネット上に載せる、これはおそらく「適切な記述・表現」ではない。

 

「良し悪し」という判断ではなく「適切であるかどうか」。

私がTwitterやブログをやる上で持っていなければならない感覚はこれだと思っている。

 

だからこそ多くの「ファン」が画像や動画を載せていようが、それを拡散していようが、文句を言う気はないのだ。

リテラシーは、一個人が押し付けるものではない。

 

何を言うのもある意味では自由で、何をしても許されるようなインターネットの世界で、私が線を引いているのは以下のようなものである。

 

・芸能人の画像・動画をアップロードしない

・それを含むツイートを拡散しない

アップロードする行為は適切ではないと判断している。

拡散しないのは「アップロードする行為」を認めることになるからで、それをやってしまうと私の性格上「片棒を担いだような気持ち」になってしまうことがわかっているからだ。

 

ちなみにご存知だろうか。

現在アップロードする行為は違反だが、それを見るのは違法にはならない*2

つまりTwitterなどで回ってきた動画などを見ても法的には悪くない。それもわかった上で、私は拡散はしない。

 

・「文章を引用される側」に与える不利益がないか考える

・タレント本人の不利益がないか考える

このブログでは「引用」という形で様々な媒体から文章を拝借している。

「無断転載」と「引用」の差については、その垣根を越えないようにとここ数ヶ月ずっと悩みながら記事を綴ってきた。

 

「引用」というやり方によりその権利を少しお借りするような形で泳がせていただいている中で、私が絶対的に心がけていることは「公式側に損害を与えない」ということだ。

 

好きなものを追いかけるようなブログを展開する私にとっては、もし誰かの「きっかけ」になることができれば小躍りしたくなるほど嬉しい。興味をいだいてもらえれば万々歳である。

 

・引用元を「読みたい」と思ってもらえるようにする

・この場で完結させない

私は、作品を紹介する時こっそり心がけていることがある。

それは「大事なところは残しておく」こと。

 

権利的な問題ももちろんあるのだが、これは私なりのこだわりだ。

 

こんな、そこら辺の野良アラサー、野良ブロガーが書いた文章で全てを知った気になるなんて「もったいない」の極みだ。

 

きちんと本物に触れて知ってほしい。そこで初めて知る発見や感動があってほしい。

だからこそ、私は美味しいところはあえて残しておきたい。

いいところを食べた後の「食べ残し」のような部分だけを渡すようなことはしたくない。

 

 

 

…だがそれと同時に、

ラクして情報がすべて手に入ると思うなよ

とも思うのだ。

 

これが幼少期からインターネットに触れてこなかった世代、昭和生まれで意地悪な私の考えである。

 

私が綴ることができるのはせいぜい「一ファンの目線から本気出して考えてみた」話に過ぎないし、「誰かによってまとめられたもの」だけですべてを知った気になってしまうのは危うい。

そして何より、もったいない。

 

 

 

一番目にする機会の多い画像のアップロードについて、私はキレイ事ばかりを言うつもりはない。

 

載せるのが楽しいのも正直わかってしまう。

 

というのも、以前Perfumeの映画を見て感動した私は、Youtubeから公式動画を山盛り詰め込んだブログを書いたことがあるからだ。

 

あの時の楽しさといったら。

公式だからこそ思う存分貼り付けさせていただいたが、自分のブログにお気に入りの作品を載せることの出来る満足感はこれまでに味わったことのない類のものだった。

 

それはきっと非公式の画像を載せる方も同じなのだと思う。

 

 

「載せる派・載せない派」には双方の意見があり、それを指摘しだせば非常に面倒な論争が繰り広げられる。だからこそ私は静観している。

 

じっくり考え、そしていろんな方を観察していると「芸能人の画像を載せる派」も細分化されていることに気付く。

ジャニーズファン・ジャニオタだけを見ていても実に様々なパターンがあるのだ。

 

販売されているライブDVDの一部などをそのまま載せる人。

雑誌のグラビア部分を載せる人。

雑誌の文章のみを「転載」として載せる人、「引用」する人。

地上波で放送されたテレビ番組を載せる人。

ラジオの音声をアップロードする人。

上記のものは載せないが、アイコンのみ芸能人の写真を使う人。

 

「載せる派」でも、どこかで線引があったりするのだ。

 

「DVDはダメ!でもテレビはOK」だとか、「全部OK!」という人もいる。

「芸能人はダメ!マンガの1コマはOK」という人もいる。

「載せているけどあえて画質が粗くしている」という人もいる。

 はたまた、アイコンには芸能人の写真を使っているが「動画・画像のアップロードはダメ!!」と強く主張し、時には他人に注意して回る人もいる。

 

そしてそれをひっくるめて、「いやいや全部ダメだから。何その線引き?」と言う「載せない派」がいる。

 

「載せないけど見る」人がいる。

「載せないが見た上で拡散する」人がいる。

そして、「載せないし見ない」と言う人もいる。

 

アイコンを何気なく芸能人の画像にしている方については私は非常に悩ましく思っている。

というのも載せている側に悪気がないというか、息をするくらい自然にそれをやっている方も少なくないからだ。

 

実はその行動だけで「こいつはこういう事(違法アップロード)をする奴だ」と判断され敬遠されるパターンもある。

何気なくやっているのだとしたらそれってものすごく損をしているのではないか。

 

個人的には、アイコンにそういった画像を使っている方を肯定はしない。

だがそれだけで判断して人格まで否定するのも違う気がしている。

 

そして今思っていることは、「インターネットにおいて何かを載せるということは、すべて"グレー"だ」ということ。

 

どれだけ法を守っていようが正しいことを書こうが、叩かれる可能性はゼロではない。

それが例えば一言の呟きであろうと、批判される可能性がある以上インターネットにおけるすべてはグレーなのではないかと感じている。

 

 

いろんな思想が入り乱れるインターネットの世界はなかなかおそろしい。

10年前と今とでは全く違う世界になっているし、これから先また大きく変わっていくのかもしれない。

  

取り締まる法さえ明確でないこの世界で、万人に理解されるような「ネットリテラシー」は見つけられるのだろうか。

 

どこかで誰かがやっているのを目にしたからといって、それが正しい行いとは限らない。

みんながやっているから正しいのかと言えばそうではない。

 

支持している人が多いからといって、その中心にいる人物が正しいとは限らない。

 

多くの反響を呼んでいるからといって、その情報が正しいとは限らない。

 

特にTwitterを見ているとそれを強く感じ、たまにとても怖くなるのだ。 

 

 

 

結局、自分のリテラシーは己で確立するしかない。

 「適切」の範囲を決めるのは他の誰でもなく、「自分」だ。

 

与えられている「グレーの範囲」をどう楽しむか。 

 

いつでも正しくいられる自信など到底無い。

それでも出来るだけ真摯に向き合いつつ、「リテラシー」を模索していこうと思っている。

 

 

*1:コミックマーケット・同人誌即売会

*2:ダウンロードすると違法である