読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ループ ザ ループ。

V6デビュー20周年という節目に戻ってきたアラサーがいろいろと本気出して考えてみるブログ。基本V6の話、でも書きたいことを気ままに。

ヒメアノ〜ル感想 ー強者と弱者は誰なのか?ー


f:id:since0629:20160612174455j:plain

【!ネタバレ描写を含みますのでご注意ください!】

 

先週「ヒメアノ〜ル」を観に行ってきた。 

この1週間ほどは自分の中での感想がまとまらず「一体私は何をどう感じたのだろうか?」をぐるぐると探す日々だった。

 

そもそも怖がりで怖がりで本当に怖がりな私は、この映画を観るか否か、むしろ私に最後まで観られるのか?という点と戦うところからスタートした。

 

観たい。観たくない。

でも絶対大スクリーンで観たほうがよいのでは?観ないときっと後悔する、でも最後まで観られるの?途中でしんどくなるのでは?

私の中で賛成派と反対派が散々議論を交わした結果、出した答えは「とりあえず観て途中でダメだったらその時はその時」だった。

 

結論が出た時に1つだけこれだけは絶対に守ろうと決めた約束事がある。

それは「明るいうちに観て、日が沈まないうちに帰宅すること」。

 

夜道で思い出して怖くなる系の映画だということは重々承知していたため、これだけは譲れなかった。

ヘタレな私は、映像を見ている時の恐怖よりもそのあとにフラッシュバックされる映像に必要以上に怯えるのだ。

 

これだけは守ろうと決め、お昼14時頃からの上映回に臨んだ。

 

99分間ヒメアノ〜ルの世界観にどっぷりと浸かり、薄暗い映画館を出ようとした私は日光に驚いてしまった。

そうだった、まだ夕方だった、と。

あれだけ固く「日中にしか観ない!」と決めていたはずなのに、映画の世界観に引きずり込まれてすっかり忘れてしまっていた。

 

それくらい「ヒメアノ〜ル」に漂う仄暗さにあてられてしまっていたらしいとそこでようやく気がついた。

16時台の日差しはまだ強く、心がどんよりとしているところへ降り注ぐ日光はあまりにも不自然に感じられた。

 


『ヒメアノ~ル』予告編

 

 

目次

 

森田は「最強」の殺人者ではない

映画を観ていてつくづく思ったのだが、どうやら私は「じわじわと迫り来る恐怖」が苦手らしい。何かが起こりそうな気配と、その「何か」にたどり着くまでをじっとりと見せられるのが苦手なのだ。

 

そういう意味でも、ヒメアノ〜ルは耐えるのがツラいシーンも多かった。

 

というのも、「森田」は最強ではない。

いとも簡単に軽々と人を殺せるような力は持ち合わせていない。

中でも印象深かったのは頼りなくも見えるその細い足。シリアルキラーに似つかわしく無いようなその細さがより一層恐怖感をあおった。

 

森田は殺し方に美学を抱いているようなサイコキラーでもなく行き当たりばったりとも言える殺人を次々と重ねていくわけなのだが、それが衝動的であるかと言えばそうも言い切れない。

 

森田にとって「殺し」は目的ではなく、手段だ。

手段としてのこだわりがあるわけでもないので隙も多い。

必要以上に刺したりするが、かといっていたぶるためにやっているわけでも無い。

 

美しい画としてフィクションとして完遂させるのであれば急所をドンとひと突きでもいい。でもこの映画は決してそうさせない。

殺るほうと殺られるほうの力が拮抗する様子に全力でハラハラしてしまった。

なかでも警官とのシーンは本当に、見ていられなかったくらいだ。

 

この映画のポスターには「めんどくさいから殺していい?」というコピーが添えられている。

 

森田は次々と凶行を重ねていくがそれらは意図的に連なっていったわけではない。

「殺し」自体に理由はあまり無く、コピーの通り「めんどくさいから」殺す場面がいくつもある。

 

女性を強姦し、殺す。

怪しまれたから、殺す。

情報を聞き出すために、聞いた後で殺す。

 

そこにあるのは「殺したい」という体を突き動かすような衝動ではなく、ただ単にごまかしたりだとか取り繕ったりといった手順が「めんどくさい」というぼんやりとした感情。

犯行の流れに重きをおいているわけでもないので手加減が無い。

「相手を消す」ために全力を注ぐ。決して最強とは言えないその身体能力で。

 

「殺人者」が出てくる物語にふれる時、私は一体そこに何を期待するのだろうと考えた。

それはきっと、ギリギリ理解し得る程度の感情の流れ。

人として手を出してはいけないタブーでありながら、かろうじてほんの少しだけそこにある「殺人への流れ」が想像できるような動機や意味がわかるもの。

 

つまり理由があるということ。

 

だからといってそれは「緻密に練られた計画的な犯行」である必要はなくて、「快楽殺人者による衝動的な犯行」であってもいい。

そこには「快楽のために人を殺す」という理由が一応はあるからだ。

納得はできない。でも、それは1つの理由になる。

そこから感じる恐怖を、自分がわかるような感情として理論付けて納得してしまえれば恐怖を遠ざけることができる。

 

 

クライマックス、殺されるかどうかの瀬戸際で岡田が「あの時のことを怒ってるんだよね」と直接森田に聞くシーンがあった。あの時、とは岡田が森田がいじめられる様を傍観している場面である。

 

それに対し森田は本当なのか嘘なのか、「お前いたっけ?」と答える。

今まさに犯行に及んでいる中でのこの会話はとても浮いていて印象に残った。

 

岡田は森田の凶行に理由を探したのだろう。

何をどうすれば止められるのか。それには理由を知り「殺す」という感情を取り除いて回避しなければならない。

そこで思い当たったのが「高校時代に間接的にいじめに加担してしまった」こと。

 

映画を観ていて、岡田の言動にはなんだか違和感があった。

おそろしい出来事が自分に降りかかってきてようやく恐怖感を抱き始めたような、そんな感覚だ。

 

いじめに加担し、その様子がトラウマになるほど脳裏に残っていたならばきっと最初からもっと森田を恐れていたはずだ。

申し訳なくてたまらなかったのなら、森田と再会した時にもっと動揺したはずだ。

それくらいに岡田にとってその「事件」は薄れていたのではないか。

 

後半になり切羽詰まったところでようやく岡田もいじめに加担してしまった事実が吐露される。

森田が自分に恨みを持っているとするなら…と考えた末にたどり着いたのが「あの時のこと」であっただけ、という印象を抱いた。

 

きっと岡田はそこに理由がほしかったのではないか。だから記憶を手繰り寄せて捻出した。

 

だが森田はそれを「お前いたっけ?」といつも簡単に突き放す。

本当に忘れていたのか、知らなかったのか、はたまた平然と嘘をついたのかはわからない。

だが謝る猶予など与えない。

この時の岡田の感情を想像すると、「そうだよ」と認められるよりもよっぽど怖い。

 

感情の流れが想像できない時、そこに感じる恐怖ははかりしれない。

 

ヒメアノ〜ルは狂気を狂気として振り切って表現しない。

「こいつは頭のおかしい奴だ、だから人を殺すんだ」と決めつけてしまえればラクなのに、決して簡単にはそうはさせてくれない。

 

 

ガラッと空気が一変するタイトルシーン

先ほど「衝動的であるかと言えばそうとも言い切れない」と書いたのだが、めんどくさいと思ったあとに「殺そう」と判断し即行動に移しているのだから衝動的といえば衝動的な殺人とも言える。

 

でも私は、森田がそこに至るまでの感情があまりにもぬるっとした空気をまとっていることが気持ち悪かった。

「これは衝動的だ!」と言い切っていいほど勢いのある感情の切り替わりがそこには感じられなかった。

全力でありながらどこか淡々と進むその凶行には得体のしれないものへの恐怖を感じた。

 

唯一その切り替わる瞬間を感じられたのが、劇中に挟み込まれたタイトルが出るシーン。

とたんに感覚がざらつき出すようなあのシーンには鳥肌が立った。

最高に不気味で最高に奇妙で、最高にかっこよかった。

 

森田が激しく感情を表すかといえばそうでもない。

引き続き淡々とした日常の動作のような雰囲気を醸し出しながら、しかし確実にあの場面から画面の空気が一変する。

 

そうだった、この映画は森田の映画だったのだ、と、ハッとさせられてしまうような、まるでこの映画が今始まったのだという気持ちにさせられる巧妙なタイトルシーンは本当に見事だった。

 

そこにあったのは性的な描写と、殺意が生まれる瞬間の交錯。

 

この映画はそういったシーンの織り混ぜ方が絶妙で、なおかつ最高に気持ちが悪い

あたかも表裏一体であるかのような気持ちにさせられる。

 

暴力的なシーンだけではなく、パンフレットの言葉から拝借するなら"セクシャルな描写"もなかなかにドギツイ。

非常に生々しく、おおそんなところまで見てもよろしいんですか…?という気にさせられる。濱田岳さんに関してはある意味「国民の弟」的な目線で見てしまっているのでなおさらだった。

 

このタイトルシーンに至るまでに映画が始まってからある程度の時間が流れていて、物語の中心を濱田岳さん演じる岡田に据えるとするならば、あのシーンはある意味ゴールでもある。端的に言うと、森田がつきまとっていたカフェ店員のユカと結ばれる。

 

しかしその一方で、森田の凶悪な感情がうごめき始める。

彼は同級生の和草に電話をかけ、まるで世間話でもするかのようにこう言う。

「高校の時にさー、岡田って奴いただろ。

そいつをさぁ、今から殺して山に埋めようと思うんだけど。」

 

 

「強者」と「弱者」は誰なのか?

タイトルにもなっている「ヒメアノール」というこの言葉の意味はこうだ。

"アノール"とはトカゲの1科である。イグアナ科アノール属に含まれるトカゲの総称。165種ほどがある。

(ヒメアノール=ヒメトカゲ)となるが、"ヒメトカゲ"とは体長10cmほどで猛禽類のエサにもなる小型爬虫類。

つまり、"ヒメアノ〜ル"とは強者の餌となる弱者を意味する。

(公式サイトhttp://www.himeanole-movie.comより)

 

強者の餌となる弱者。

これだけではわかるようでわからないようで、その言葉にはっきりとした輪郭を捉えきれなかったのだが、もっとはっきりと書かれている文言が公式サイトにはでかでかと掲載されていた。

 

「捕食者と被食者。この世界には、2通りの人間しか存在しない。」

 

森田の心の根底には「高校時代に受けたいじめ」がある。

そのシーンは回想として、陰湿ないじめとまったく似つかわしくないような透き通るような色彩の映像として描かれている。

 

森田はいじめを受け一旦は登校拒否となる。

しかしいじめの主犯格から頼まれた岡田が、デタラメの理由で森田がまた学校へ来るように促す。「謝りたいんだって」、と嘘をついて。

 

いじめはどんどんエスカレートしていき、映画としては「そこまで描くか」と思ってしまうような行為にまで及ぶ。

 

この時点での森田は言ってみれば完全に「被食者」だ。捕食者の前でなすすべもなく、ただいたぶられるだけ。

まさに強者の餌となる弱者、だ。

食うか食われるか、そのどちらかしかない。

絶望的な日々は森田にその真理を刻み込んだのだろう。

 

高校を卒業する直前に森田はいじめの主犯格を誘拐して殺し、埋める。

被食者であった森田が、この事件を境に捕食者となっていく。

 

「ヒメアノ〜ル」において強者と弱者は一体誰なのだろう。

あらすじだけ見ると強者=森田、弱者=岡田と感じた。だが果たしてそうと言い切れるのだろうか。

森田もかつては岡田と友達で、なんら変わりの無い普通の男子だった。

 

 

ラストシーンはぐっさりと突き刺さった。

あの光景に懐かしさを感じる方もいると思う。

 

私には弟がいるのだが、あの景色は昔よく目にしていた「弟が友達とゲームする姿」そのままだった。

カメラアングルもゲームをする森田と岡田の背中から。当時の情景、それを見ていた私の目線とおそろしく重なってぞくっとした。

 

そして切なくて切なくてたまらなくなった。 

凶悪な森田も、平凡でいたって普通な岡田も、紙一重なのだ。

 

どこにでもあるような光景と、どこにでもあるような友情と。

そこから2人の辿る運命は哀しいほどかけ離れ、まったく違っていく。

 

疎遠になっていたがひょんなことから再会しまたその運命が交錯した時、森田は岡田にこう言った。

俺もお前も人生終わってんだよ。

何も持ってないやつが底辺から抜け出すことなんか無いんだぜ。

 

高校時代にいじめを受ける中で宿った絶望感やあきらめの感情はどれほど深かったのだろう。

救いを求めても救われない。逃げても逃してもらえない。

 

それまでの森田の生い立ちの中に殺人者になりうる要素がすでにあったのかはわからない。

しかしこのいじめで彼に刻まれたのは圧倒的な絶望感だ。

主犯格を殺しいじめから逃れたあともその傷は消えず、時折襲い掛かるのは当時の幻聴である。

 

私たちはストーリー上に現れる殺人鬼を、自分や周りの人物とかけ離れた部分を見つけて日常から遠ざけようとする。

 

でも森田は最強の殺人鬼ではない。遠くて、近い。

リアリティを追求した先にあるものがこんなに哀しいものであるなら、私はどこに救いを求めればいいのだろう。

 

 

ヒメアノ〜ルの公式サイトには、こうも書いてあった。

捕食者と被食者。この世界には、2通りの人間しか存在しない。

平凡で幸せな日常が、いつまでも続くとは限らないー

 

 

ラストシーンに救われたのは誰なのか?

クライマックスでユカを襲う森田。岡田が助けに入るももみ合いになり、駆けつけた警官を振り切って逃走を図る。

停まっていた車を無理やり奪い岡田を後部座席に放り込み、逃走する森田は目の前に現れた犬を避けて衝突。

直前には無残に人の頭を轢いていたのに、犬は守ろうとした。

 

重傷を負い、意識が朦朧とした中で彼が岡田に語り始めるのは頭の奥底にあったのだろう、高校時代に友人として交わしていた日常の会話。

 

「借りてたゲーム、返さなきゃ」と車の中でごそごそと探しはじめる。

最後に「またいつでも遊びに来てよ」とやさしい声で、風貌とそぐわない笑顔を添えて岡田に語りかける森田の姿は、直前までずっと続いていたシリアルキラーのものではなかった。

 

この映画を観るにあたり、そこに「森田剛」はいなかった。

私はこのシーンでようやく役者としての森田剛の存在にハッとしたのだった。

 

なんとも形容しがたい「日常」と「狂気」が交錯した人間の顛末。それを、文章としてはおかしいのだがそっと叩きつけられた気がした。

 

 

 

最後の最後、高校時代の「どこにでもいそう」な森田の姿の回想は果たして観る側にとって救いになっただろうか。

 

あのシーンには、なんとも言えないやるせなさを感じた。

 

それまでの緊迫した空気から解き放たれて繰り広げられる、やわらかで穏やかな情景。

戻ることはできない過去と、まだ闇に染まりきっていない少年の姿。

 

気が合う仲のよい友達としてテレビゲームに熱中する、森田と岡田。

庭には、犬がいる。

 

人間は次々と殺していったのに、とっさの判断で守ったものは彼の記憶の中のこの犬だったのだろう。

 

「救われないなあ…」と思った。

 

森田は救われるべきではないほどの大罪を犯している。

倫理として、殺人者に共感してはいけない。

 

でもその一方でラストシーンには思わず「うわあ…」と言ってしまいたくなるほどのやさしさが詰まっていた。

やさしくて、やさしすぎて、もうやめてくれと思った。

 

殺人者に共感してはいけない。許されない。許してはいけない。

そんな感情とたたかいながら涙目になりつつスクリーンを見つめていると、最後に森田は、こう叫ぶ。

 

「おかあさーん!麦茶2つ持ってきて!」

 

透き通るような回想から暗転し、流れるエンドロールに添えられていたのは涙をこらえきれなくなるようなやさしい音楽だった。

とびきりやさしくて、残酷だった。

 

そのコントラストに「なんというラストだ!」と称賛したい気持ちと「なんでこんなことをするんだ…」というなんともやりきれない気持ちが同居して、さらにファンとしてはエンドロールの最初に流れてきた「森田剛」の文字への特別な想いもあって、感情がひしめき合ってただ泣いていた。

 

どれだけ「森田だってどこにでもいる普通の人間だったんだよ」と優しく包み込むような画で語りかけられても、結果がシリアルキラーであることに変わりは無い。

 

救われない。

 

森田のことを考えると救われない。

 

感情をどこへやったらいいのかわからなかった。

 

やさしさは時に相手をズタズタに傷つける。

寄り添うような、表面上は「なんてやさしいんだ!」と思えるような行いが、深く考えると実はそうでないこともある。

逆に突き放すやさしさというものもある。

 

映画を観た観客として、こわがりとしての私はあのシーンに救われた。

 

ラストシーンは、それまでの狂気が渦巻くおそろしい光景を浄化する。

あの流れでホッとした自分もいたのは確かで、やさしすぎるあのシーンは鑑賞後にわかりやすく「恐怖を感じる映像」の後味を薄れさせた。

 

犬をよけるシーンには心のどこかで「なんてベタな…!」とツッコむ私もいた。

人間には心を開かないのに動物には心を開く。わりとありふれた展開だ。

 

それまでは「見てはいけない映画」を見ている気がしていたのに、一気に「映画的な映画」に着地してくれた気がした。

でもそれとは裏腹に心のなかに残った「感情」としての後味の悪さはより大きくなった。

 

99分間、その中で私は森田を「凶悪な殺人犯」として突き放したかったのだろう。

日常とはっきりと切り離された狂気の塊として置いておきたかったのだろう。

 

でもそうさせてくれなかった。

 

日常の延長線上にあの森田があるのだと、やさしく闇を置いていくような映画だった。

 

やさしくてやさしくてやさしすぎるラストの画を観たあとで、映画館から出ようとした私の心に強く残っていたのはやっぱり闇だった。

ラストが凄惨な画でわかりやすく闇を提示してくれていれば、「怖い……でも帰り道はまだ明るい!やったぜ安心だぜ!なんて能天気に思えたかもしれない。

 

最後にやさしく光が注ぐ画を用意された分、私の心には簡単に片付けることのできない複雑な感情が残った。

やさしいようで、ひどく爪痕を残すラストシーンだった。

 

 

「森田」になってしまう可能性は私にだってある。

そして周りの人がそうなる可能性もあるし、いつ降りかかってくるかわからない。

捕食者になる可能性も、被食者になる可能性もあるのだ。

 

帰りに電車から見た風景は当然ながら行きに見た風景と同じだ。

でもその街並みはなんだか不穏に見えてしまって、「どこでいつ事件が起こって青いビニールシートがかけられるような現場になってもおかしくはないんだな…」と思ってしまった。

 

ヒメアノ〜ルの劇中には事件現場がビニールシートで覆われている様子を引きでとらえたアングルがあった。

それはまるで実際に起こった事件を追うワイドショーの中継映像のように感じられた。

手ぶれを生かしたカメラワークは、つくりものである映画をまるで実際にあった現場を映し出しているかのように錯覚させた。またある時は「これは森田の視点で、もしかすると今まさに様子を窺っているところなのではないか?」というようなおそろしささえ抱かせた。

 

 

観終わったあと、私はこうツイートした。

 

観終わる前と後とで私自身は何も変わらない。見える景色も変わらない。

でもその後味に支配され、いたって普通の日常風景にさえ不穏に見えてしまう。

目に見える恐怖ではなく、目に見えないところに潜んでいるのかもしれない凶悪なものへの恐怖だ。

 

 

 

映画を観ながらモヤモヤと思い浮かんでいた言葉があった。

ニュアンスでしか浮かばなかったというところに自分の知識の浅さが感じられて情けなかったのだが、よくよく調べてみるとニーチェの言葉だった。

 

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 

 

ヒメアノ〜ルを観ながら、私は深淵を覗いているような気持ちになっていた。

見てはいけないものをこっそりと覗いているようだった。

 

でも途中から、「果たしてこれは深淵なのか?」と思い始めたのだ。

 

遠くかけ離れた世界を覗いているような気でいたが、もしかするとこれは深淵ではないのではないか。

もっとずっと近く、すぐ隣でも起こりうるのではないか。

 

安全圏で覗いていたつもりがいつの間にか距離を詰められる。

なんとか距離を取ろうにも、うまくつき離させてくれない。

 

パンフレットを開いてみれば、ストーリー説明のページには大きくこう記載されていた。

 

「あなたの心は耐えられるか?」

 

ヒメアノ〜ルは、R15+指定がつくほどに過激な「ヴァイオレンス&セクシャルな描写」が注目されている。

だがこれはけっして、視覚的にインパクトを与えるだけの映画ではない。

 

心をえぐるような人物描写と、殺人犯を突き放しきれない世界観。

 

 

「あなたの心は耐えられるか?」

この言葉の指す本当の意味は、きっと観ないとわからない。

 

ヒメアノ~ル 通常版 [Blu-ray]

ヒメアノ~ル 通常版 [Blu-ray]